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システム思考は小学1年生でも使えます。

「システム思考は複雑でよく分からない」と耳にすることもあるのですが、ピーター・センゲは常々「人間はみんな生まれつきシステム思考家としての素養を持っている(People are all innate systems thinkers.)」と言います。そして、この考え方は、新しいものや難しいものではなく、誰もが経験から知っているもので、適切なツールを使うことでその能力を高めることができると話します。

センゲが、「システム思考の達人」としてワークショップの中で紹介するのがこの6歳児たちです。ダニエル・ゴールマンとの共著「The Triple Focus」の中に解説があったので紹介します。なお、実際の動画は、Waters Foundation – Systems Thinking in Schools のサイトで見ることができます。


小学1年生のシステム思考 (The Triple Focus より)

ここ2年くらいの間、私がいちばん良く使っている動画なのですが、6歳児の男の子が3人、自分たちで作った「どうして僕たちは遊び場でケンカしてしまうのか」という小さなシステム図を囲んで座っています。この子たちは、アーリー・ラーニングにおけるシステム思考に重点を置いているたくさんの学校の1つに通っています。自分たちが抱えているとてもリアルな問題を解決する方法を見つけようと、ある日休み時間から戻ってきて、慣れ親しんだツールを使いました。そして、強化フィードバックループ(この場合、悪循環の図)を描きました。

Playground dispute
The Triple Focus (Goleman & Senge, 2014) より引用・翻訳

この図には、2つの重要な変数があります。「いじわるな言葉」と「傷ついた気持ち」です。2つは円を描くように結ばれていて、片方が増えると、もう片方も増えるようになっています。そこへ先生が通りかかって、この子たちに図を説明してくれないかと頼み、その様子をスマートフォンで撮影しました。ですから、これはとても自然発生的なものです。これらの学校では実際にとてもよくある事例です。

初めに、男の子の1人がこう言います。「まず、僕らは『いじわるな言葉』を言われて、『傷ついた気持ち』になるんだ。それから、ケンカが始まって、それで、もっといじわるな言葉を使ってしまう。そうしたら、もっと傷ついた気持ちになって、もっといじわるな言葉を使ってしまうんだよ。」

男の子たちは、この強化ループが作り出したエスカレートするダイナミズムをはっきりと理解していました。

別の子が付け加えます。「ぼくらは、この強化ループを抜け出すことのできる方法を全部考えてみたんだ。ここには×が付いているでしょ(図に×が描かれている箇所を指差しながら)。それは・・・あまりうまく行かなかったから。『ごめんなさい』って言ってみる方法は、まあまあだった。でもこっちの方法はまだ試していないから、(ループの別の箇所を指差しながら)、今度ケンカになったら、試してみようと思ってる。」

悪循環から抜け出すための「レバレッジはどこにあるのか」について思うことを話し合った後、1人の子が興奮した顔で宣言しました。「もし、この強化ループが、『やさしい言葉』と『やさしい気持ち』になれば、(悪循環のループのあちこちを指差して)これも、これもサヨナラすることができるんだ。そして、このループじゃなくて、悪くない何か、何か良いものに変えることができるんだ。」

この最後の発言に別の男の子も全力で賛成します。「もしこれが良い強化ループだったら、こんな問題は何も起こらないね!」

この続きを読む:「小学1年生のシステム思考」から私たちが学ぶこと。

この先は、書き起こしです。

「私はそれをやらなくてよい」ということです

オットー・シャーマー: 残り時間が少なくなってきましたが、それに関連した最後の質問があります。どのようにスペースを育むか、つまりグローバルな活動の構築についてです。あなたの仕事の一部は、アカデミックな領域で手法やツールを生み出し、関連する研究を行っています。そして、あなたは大きなシステムチェンジ、複数の大きなシステムチェンジのプロセスにも関与してきました。

しかし、3つ目の領域があります。SoL(組織学習協会)という流れの中で、研究者、実践者とコンサルタントのコミュニティを育んだのです。まさにそれによって、ツールの使い方、組織学習やシステムチェンジが活用されるようになりました。こうした実践者やアクションリサーチのコミュニティは、今ではグローバルコミュニティとして多くの国で自己組織化されています。

自分がローカルで行っていることをどう移転して、 グローバルにネットワーク化された協働のスペースにどうつなげるか? 私たちの多くがこの問いに直面しています。簡単ではなく、言うよりも行うのは困難です。あなたの取り組みのこれら3つのドメインを見てみて・・・(この枠組みに)同意してもらえるかどうかも分からないのですが・・・

特にこのようなコミュニティ、このようなグローバルな活動において、どのように異なるオーガナイジングの方法が可能となるスペースを維持(ホールド)するのでしょう? これまでにどんなことを学びましたか? 私たちがそれぞれに活動する様々な場所、それぞれの文脈で同様の取り組みに意識すべきこととして、学習のポイントやアドバイスはありますか?

ピーター・センゲ: まったくあなたの言う通りです。私にとって、その3つのドメインはとても明らかだと思います。コミュニティ・ビルディングは、ある意味で本当に包括的なものです。あなたの問い、「私が学習し続けなければならないこと」について、個人としてじっくり考えて言えば、「私はそれをやらなくてよい」ということです。

それらのコミュニティが活発になるのは、たくさん、たくさんの人たちが、たくさん、たくさんのことをするからです。そして私にとっての「やらなければならない」を手放すこと、もう少し前向きな言い方をすれば、手放すことは「扉」のようなものです。

まるで、立ち止まり始めるようなものです。一度その境界線を越えたら、「これをやるのは私ではないだろう」、そして「それをする必要さえない」ということに気付くのです。私の意図と意識がどこにとどまることを許すか。今ここに、私はとても真剣に取り組んでいるのだと思います。ほかの人たちが何かをするために、そして自分自身が基本的に見えなくなるために、スペースや環境条件やプラットフォームなど、それが何であれ、意識的に創り出すとはどういうことなのでしょうか。

私たちはみんなスペースを創り出すことについて知っています。この取り組みにかかわる人たちが、共通して理解している重要なことです。コンテナをつくること。スペースをつくること。プラットフォームを築くこと。用いるメタファーやイメージは違いますが、みんな理解してい ます。

しかし、ここにいつも隠されてきた問いがあると思います。「私はそのどこにいるのか?」です。もちろん、プラットフォームを構築しているかもしれないし、集まりを企画運営しているかもしれない、さまざまな場所にいる可能性があります。しかしある時点において、自分自身を置くことのできる「もっと見えにくい場所」があると思うのです。

(こうした役割は)すべて大切なことです。コミュニティをつくろうとするなら、人に集まってもらわないといけません。その物理空間をつくるために、たくさんの時間が必要でしょう。集まりや会議なども、本当に大切な仕事です。プラットフォームづくりもあります。プレゼンシング・インスティテュートのウェブサイトは、すばらしいプラットフォームです。私たちそれぞれのネットワークが、過去20〜30年間におこなったどんな取り組みと比べても、大きな一歩を記したと思います。たくさんの仕事、たくさんの意図、すべてが関わっていることは明らかです。

つまり、集まりを企画することは、ある種の「合金」です。どれも本当にやらねばならないことです。何かが起こり得るところにスペースを創るには、このようなことがたくさんあると思います。ガンジーの古い言葉を覚えていますか?「変化であれ」というのです。ただ「変化である」ことから、スペースを創り始めることができます。

しかし、さらに先のステップがあると思います。おそらく人によって少しずつ違うでしょう。しかし、あなたの問いについて考えれば、私にとって、私の人生の旅路を特徴づけるような問い、外殻は、スペースを創り出すための次のステップは何かでした。かつて、その多くは集まりを催すことでした。プラットフォームを築くことも、もちろんそうでしょう。しかし、それらはほかの人がやってくれています。ですから、私の役割がそこにあるのかどうかは分かりません。それはただ、構築されつつある、ウェブを介したプラットフォームとつながることかもしれません。

ただ、おそらくもう少しほかにステップがあると思います。1つ、確かに分かっていることは、その旅路は「手放す」旅路だということです。私にとって、私の話ですが、深く習慣的な傾向は、「これをやろう!やるなら私がやらなければ!」というものです。そして、その背景の前提は「私がやらなければそれは起こらない」ことです。それこそが危険なのです。その前提は、ある程度正確なのだと思います。こうした旅路のいくつかの段階において、あなたがやらなければ起きないことがある。確かにそうです。

しかし、ステージが変われば、「それが起きるために、私は何をしなければならないか?」という小さな思考を抱え続けることは、文字通りあなた自身を制限するものになります。答えは、実際には「意識的に、意図的に、思慮深く、真摯に、何もしないこと」かもしれないのです。彼らにはこんなことができるだろうと、誰か別の人のことをイメージする。そして、ほかに何もしない。難しいことですが、それが旅路だと分かっています。

スペースを創ることは、さまざまな形のコミュニティーを築くうえで、いつも共通項となります。さまざまなスペースが生まれるため、みんながいろいろなことをしなければなりません。どこかで、「やること」は少なくなっていくのかもしれません。私には分かりません。

ありがとうございました。

こちらこそ。

システム思考について

Peter Senge MOOC Leadership for Global Responsibility 2014 Webinar 26.03.2014

2014年3月26日、Leadership for Global Responsibilityでの講演より、コア学習能力の1つ「システム思考」についての簡潔なまとめです。

12:20より。 (コアとなる能力の)1つは、より大きなシステムを見る能力です。組織の中、組織同士の間、コミュニティといったどんな状況においても、常に私には、自分では見えないさらに大きなシステムが存在します。私とつながっていないプレイヤー(ステークホルダーと呼べるかもしれません)の視点が常に存在します。私には見えない重要な相互依存性が常に存在します。

どうすれば私は、さらに大きなシステムを見るために取り組み続け、取り組み続け、そして取り組み続けることができるでしょう?

私自身の専門分野に関する問いです。私は、MIT出身でシステム思考という領域でのトレーニングを受けてきました。長年関わってきていますから。

「意図せぬ結果」の原則は、より大きなシステムを見ることを学ぶためのディシプリンの一部として活用できます。私たちはいつも問題に取り組んでいて、これは良い悪いではなく、避けられないものです。しかし、私たちは好ましくないものや問題をはらむものを目にすると、それをどうにかしたくなります。そして行動を取ります。

・・・ただ、往々にして、このとき私たちが着目するのは、自分の行動に対する意図した結果であり、一方で実際に起きていることは、多くが意図せぬ結果です。こちらで起きることと、あちらで起きること、または少し遅れて起きることもあります。私たちは、こちら側で実現しようとしていることがあり、今後3か月を考えて行動を取ります。しかし、本当に重大な結果は、向こう側で起こります。それは、今ではなく遅れて起きるのです。

「意図せぬ結果」という原則は、ものごとを見る卓越したレンズであり、より大きなシステムを探求し続けるために使える、とても特別なツールです。私たちに、システム全体が見えることはありません。決して、決して、決してありません。私たちがその中で生き、行動を取り、私たちの組織が活動する相互依存性のウェブは、いつも私たちに見えるものよりも大きいのです

この価値を認めて深く持ち続ければ、必ず何か強化されるものがあります。謙虚さと呼ばれるものです。誰にも全体像は見えません。

リーダーシップに関する大きな危険のひとつは、いつも、特に権威ある立場においては、高慢です。「これが答えだ!あとは計画を実行するだけだ!そうすればすべてうまくいく!」という考えです。しかし、私たちにはシステムの全体が決して見えないと、心から認めるなら、謙虚にならずにはいられません。好奇心を持たずにはいられません。見えないものにオープンでい続けずにはいられないのです

それは、「この人には何が見えるのだろう?」という姿勢です。相手のことが好きでなかったとしても、まったく合意できなかったとしても、その人にはとても違う視点があるのです。ただ、彼らには、大きなシステムにおいて、私には見えない何かが見えています。ですから、これは謙虚さと真の好奇心にもとづく、質の違う関係性を築くための基盤でもあるのです。

グローバルなシステムに向けて ー SoLフランスのインタビューより

・・・もっとグローバルな何かが必要だと思います。それが何かははっきりしませんが、世界中で直面する窮状を見れば、世界は現実の問題の複雑性に直面し、ある意味で分断状態にあることが分かります。気候変動は、その好例ですが、唯一の事例ではありません。大規模な貧困、お金持ちがさらにお金持ちに、貧しいものはさらに貧しくなっています。これが世界中に起きている問題です。

私たちが目にする分断は、こうした問題が存在する、または存在するはずだと考えない人たちが、かつてのやり方に戻ろうとすることです。かつてのやり方に引き戻そうという強力な傾向が存在します。もちろん、これを支えるのはたくさんの恐れとたくさんの怒りです。そして、これが世界中で私たちの社会を分断しています。

一方で、これらは真の複雑な課題です。私たちは理解していませんし、決して理解できることはありません。正しい戦略は存在しないのです。私たちは、ただ学び続けなければなりません。私たちに必要なのは、卓越した専門家のマインドではなく、子どものようなマインドなのです

すべてを言い換えれば、複雑系の世界では、専門性はますます問題になっていくということです。私たちの今が、専門家のように答えを持っていると期待するのは、甘い幻想です。ある意味おかしくもあります。なぜなら、知の伝統は専門性の伝統と大いに違っていますから。私は、専門性崇拝がますます機能不全に陥っていることが、多くの問題になっていると考えるようになってきました。「私が答えを知っている」「あなたの問題を私が解決しよう!」「私がマスターだ!」「私こそが専門家だ!」といった考え方は、複雑性の世界では、どんどん通用しなくなっています。

しかし、非常に大きな恐れがあるため、自然な傾向として、古いジョークですが、脳科学者は「恐怖のもとで脳はギアを下げる」と言います。もっとも原始的な「闘争か逃走か凍り付く」ようになります。文字通り、爬虫類の脳幹です。

今は残念ながら、爬虫類的な政治活動家がたくさんいます。「これが答えだ!」「これを止めなければならない!」「これを凍結しろ!」「かつての状態に戻ろう!」と。そして、これを理解するカギは、感情です。そこにあるのは恐れと、そして恐れととても近い関係にある怒りです。

ですからその通り、何か新しいものが必要です。グローバルな規模で、それがどのようなものかは分かりません。イノベーションのネットワークや想像力のネットワークの出現だと言う人もいるかもしれませんし、当然、それをもっとも強力に目にするのは、子どもたちや若者の間においてでしょう。彼らは生まれつき、探究的でオープンで、維持や保護に囚われていません。創り出すことに意識が向かっています。そして、それが世界の本当の分断ーヒエラルキーが強い力を持つ専門性の崇拝と、学習と探究のスピリットの分断なのかもしれません

しかし、分断は次第に明確になっています。過去を守るのは、学習に適した方法ではありません。過去にそうだったこともなく、未来にも決してないでしょう。しかし、恐怖が高まると、より過去を守ろうとする傾向が強くなります。そしてもちろん、深いグローバルなダイナミクスと結びつきます。つまり、富める者がさらに富み、貧しい者がさらに貧しくなる傾向が構造的に埋め込まれているのです。

おそらく、その最たる例が金融セクターの進化でしょう。歴史的に見れば、銀行、あるいは銀行のようなものはとても重要な産業です。要するに「こちらに金融資本の余剰があって、こちらに損失がある。これら2つをどう結び付けられるか?」 これが銀行が伝統的に行ってきたことです。

問題は、今日の金融セクターを見ると、まったく銀行業ではないことです。それは巨大カジノのようで、お金持ちが大金を投じてギャンブルを行い、よりお金持ちになっていきます。金融資本が、さらに増え続ける金融資本を生み出すべきだという考え自体が、問題のある考え方だと思います。伝統文化の中には、問題視するものがあり、通常は罪だと捉えていました。一定レベルの金融資本を築いた人たちが、その富を、持たざる人たちを助けられる方法で使ったり、拠出したりできるべきだと考えるのでなく、お金持ちが、ただすでにお金持ちだからといって、さらにお金持ちになれるという考え方は、社会的な立場から明らかに問題があります。これは今日の深い価値観の話です。

そして、政治の世界でもそれを目にするのは驚くべきことではありません。とてつもなく裕福な少数の人たち(さらに豊かになることを主目的としているように見えます)が、支配的になっています。これが私たちの世界の大きな問題です。私にとって、これは気候変動の社会における相似形です

このように話す人は多くありませんが、気候不安定化では、豊かな人たちが貧しい人たちの問題を生み出しています。そのもっとも顕著な症状が移民です。世界中どこへ行っても、南から北へ大量の移民が押し寄せるという問題が起きています。通常、移民のもっとも一般的な原因は気候不安定化です。洪水、干ばつ、伝統的な農業地域の劣化により農業ができなくなることなど。

ですから、私たち富める北が、移民が起きる環境条件を創り出しています。そして、私たちは大きな壁を建てて「あなた方に来てほしくない」と言うのです。しかし、私たちこそが、その条件を創り出しています。

気候不安定化は、ある種の帝国化です。21世紀における植民地化です。過去の植民地化は、資源のために貧しい国々を搾取しました。現在の私たちは、気候不安定化のような私たちの廃棄物の溜め池として貧しい国々を搾取しています。豊かな国々によって創り出されて、帝国主義的に、貧しい国々に押し付けられます。ただ私たちにはそれが見えません。私たちは、それを単なる問題の症状として見るのです。だからこそ、長年にわたって、幼い子どもたちと話をすると、遅かれ早かれ2つの課題が現われます。子どもたちが本当に心配しているのは、気候変動と貧困です。そして、2つの課題は表裏一体です。

同時に、私たちは過去を守ることに躍起になっており、これでは辻褄が合いません。世界をますます不安定にするでしょう。ですから、これをグローバルな全体像として捉えなければなりません。そして、これを解決できるネットワークが必要です。それがどんなネットワークとなり得るのか、私たちには未だはっきり分かっていませんが、そうしたものが世界中に出現しつつあると思います。プレゼンシング・ネットワークは素晴らしい例です。たとえば、何万人もの人たちがバンキングの再発見に取り組もうとしています。彼らには大きな可能性を感じています。

(次のページは書き起こしです)

生きている限りだよ。それ以上は無理だから。

「関係性の場」についての続きです

デミング博士のジョークを、ベスと会ったときに話しました。同じワークショップを30年間もやってきたのに、「もうずっと会えなくなるのかな?」という感覚だったからです。

そして、突然思い出したのが、デミング博士の面白いジョークでした。私にとって、彼は本当のメンターでした。品質運動の創設者で、多くの人に知られていますが、亡くなって20年も経っているので、現在ではそれほどでもないかもしれません。私たちは、共にテレビに出演していました。そこには、とてもプロフェッショナルなニュースのアンカーのような人がいて、ファシリテーションをしていました。耳に小さな何かを付けて、とてもスマートに全体を進行していました。6人の発言をスムースにまとめていました。

私もそこにいました。テレビで見ていたのではなく、彼と共にいたのです。そして、彼の意識がここに集中していないことも分かっていました。すべてをコントロールしていましたし、とても洗練されていましたが、フォーカスしていなかったのです。私の言葉で言うなら、とても「機械的」で、すべてをスムースに見せようとしていました。

しかし、その彼が、次第に耳を傾け始めたのが、私には分かりました。

デミングは、とてもビジョナリーな人物でした。本当に可能性を見ることができたのです。彼が、人生の最後の5年間に用い始めて、いつも使っていたフレーズが、「マネジメントの一般体系を変容する」というものです。マネジメントの一般体系とは、学校、職場、政府などのあらゆる組織であり、このクレイジーな「マネジメントのシステム」と呼ぶものによって統制されるものでした。

とにかく、この司会の彼が理解し始めていることが、私には分かりました。それは役割としての機能低下を引き起こします。なぜなら彼は、誰かの発言のあと5秒間くらい沈黙したり・・・とても自然なことですが、テレビにおいては大問題です。無音の時間は無駄な時間ですから。そうでしょう? しかし、彼の関心は高まっていきました。

彼はその沈黙をそのままにしました。私はそこから10フィートの位置にいたので、彼を目の前で見ていました。そして突然、彼は心の中にあった問いを発したのです。デミングの方へ向き、「どれだけ時間が掛かるんですか?」と尋ねました。「あなたは、私たちの社会変容の話をしています。それにはどれだけ時間が掛かるのですか?

そしたら、当時おそらく92歳だったデミングは、彼をまっすぐに見て、間髪入れずに言いました。

「生きている限りだよ。それ以上は無理だから」。

(2人が笑う)

この意味が分かり始めましたね。私はこれをいつまでもやるのです。私たちには友人がいます。そして、社会的な関係のすばらしいネットワークがあります。私たちが「心から大好きだからやっていること」をやっているときに生まれる関係です。そして、もう何もできなくなるまでこれを続けるのです。「生きている限りだよ。それ以上は無理だから」。それが、人々の絆を生み出します。これが本当の可能性です。

しかし、危険なのは、私たちの思考がコントロールを握り、タスクや達成しなければならないことばかりにフォーカスさせてしまうことです。そうすると、私たちの不安が、アテンションを支配します。恐ればかりが重要になり、そしてもちろん操作することばかりが重要になります。一度ものごとや状況を操作し始めると、関係性の場は破壊されてしまいます。なぜなら、関係性の場は「プレゼンス」から生まれ育ち、繫栄するものだからです

世界中でさまざまな「偉大なこと」をやろうと挑んでいる人たち、こうした問題のすべてを解決しようとしている人たちに目を向けると、根本的に「恐れ」の感情と「操作」の戦略で動いています。そして、彼らはまさに自分たちが育みたいと願っているものを育んでくれる可能性を持つ土壌の栄養素を破壊しています。土壌の栄養素とは、社会性の場であり関係性の質です。これが悲劇です。


関係性の場(Relational space)について

マザー・テレサのストーリーの続きです

オットー・シャーマー:大きな愛をこめて、小さなことをする。そこに付随すること、また別のことなのですが、あなたがどう思うかを知りたいことがあります。私たちの取り組みや、その他の取り組みにしても、もうひとつ言えることは、独りではできないということです。いつもそうした取り組みには文脈があって、大勢ではありませんが、数名が関わっています。1つの「空間のホールド」というか「コアグループ」というか。これについて、どう考えていますか?

おそらく一般的には、ほとんどの場合、個人のことばかりが意識されています。しかし、現実にはいつも社会的な背景のようなものが存在しています。つまり少なくとも1人、または数人が関わっているということです。この側面についてどう思いますか? ここから派生して、それら(場やグループ、社会的文脈)を育てるために、どんなことを勧めますか?

ピーター・センゲ:私には、その質問がほとんど矛盾しているように見えるのです。「どうやって育てるのですか?」というのは論理的な問いです。しかし、私が言いたいのはこういうことです。私たちとは、そういう存在だと思うのです。集合的であること、それは私たちの一部なのです。集合的、つまり関係性の中に生まれてきました。そして、私たちがとても長い間そのことに背を向けてしまったせいで、実際よりも難しいように見えてしまっているのです。

オットー、あなたがこの問いを話し始めたときに、私の意識の中を巡ったのは、これまで一緒に仕事をしてきた、たくさんの、そして、みんなすばらしい人たちとの溢れんばかりの記憶でした。何万人という人たちです。彼らがどうしてすばらしいか。すばらしい人たちだからです。人間というのはただそういうものです。とても楽しく、一緒に仕事をすることができました。大変な仕事でしたけれど。

だけど、私は率直に言って、とても大切だと思った仕事の中で、私ひとりで成し遂げたことなんて何ひとつ存在しないのです。たった1つもありません。そして、このような仕事は、いつも簡単にいくとは限らないのですが、その課題があり、あなたが本当に大切に思うことに、周りの人たちと一緒に取り組むことができるという、そのシンプルな喜びがあります。これに代わる方法はありません。

ですから、本当に残念なのは、人々が何かを成し遂げようとあまりに忙しくしている内に、自分が創り出している「関係性の場(Relational space)」に注意を払っていない場合です。この関係性の場こそが、どんな仕事を成し遂げられるかを決定づけるのですから。これも、私たちの意識が私たちに仕掛ける大きなトリックのひとつです。まるで勝利の目前で敗北をつかみ取るかのように。私たちは、どんなことだって成し遂げられる可能性を持っています。にもかかわらず、「コト」に囚われるあまり「関係性の場」に注意を向けず、その結果、何一つ実際に成し遂げられないのです。

私はよく、気を付けながら話すのですが、プレゼンシング・インスティテュートやSoLの集まりに参加すると、いつも「ああ、あの人と20年間も仕事をしたなあ」「はじめて会ったのは1970年代だった!」といった感覚を覚えます。まるで高校の大同窓会が続いているかのようです。本当に喜ばしい気持ちになるのは、その関係性がどれだけ強いか、そしてどれだけ永遠に続くものかに気付くからです。

私たちの共通の友人ベス・ヤンデルノアとは、1983年か84年に仕事を始めました。ずっとずっと昔のことです。そして今、彼女がいくつかのワークショップのリードを降りようとしています。しかし、ただ彼女が人生の次のステージに進むからといって、本当は何も変わらないということが、私たちには分かっています。会う機会はあるでしょうし、連絡も取り合います。ひょっとすればもっといろいろなことを一緒にやることになるかもしれない。これは、決して変わらないものなのです。

ピーター・センゲが語ったデミング博士のジョークに続きます


『デジタル時代の組織変化』in 上海 2021年10月

2021年10月21日開催 第11回中国経営&グローバルフォーラム in 上海

『デジタル時代の組織変化』ピーター・センゲ

はじめに

みなさん、おはようございます。マサチューセッツ州中心部、自宅近くのスタジオからお話ししています。みなさんは私から見て地球の裏側にいて、みなさんも同じように床を指さすと、私はそこにいます。

この会議に参加できることに心から感謝します。その理由のひとつは、私と中国に深いつながりがあるからです。多くの時間を中国で過ごしました。中国に先生がいたのです。また、私にとって意義あるたくさんの仕事に関わる機会がありました。ここ3~4年は、その限りではないのですが、理由の一部としては機が熟して次に進むタイミングだったこと、そして、私たちが暮らすこの世界のさまざまな政治的条件と、今日ではもちろん環境条件のためでもあります。さらに、パンデミックの影響、それによって私たちの物事のやり方があらゆる意味で変わらざるを得なかったこともあります。

しかし、今私が自宅から20マイルほどの場所にいながら、みなさんとご一緒できることが意味するのは、私たちが足を踏み入れようとしている、ある意味で奇妙な現実です。グローバル・パンデミックは、ある意味で加速装置(Accelerator)です。私たちをリモート参加の時代へと、とても急速に引き込んでいます。私は自宅のすぐ近くにいるのですから。これは大きなポテンシャルを持っています。

パンデミックはまた、大きな問題も生み出します。もっとも危険なのは、私たちが問題に気づくことすらできないことだと考えます。数十年間もデジタル化プロセスの中にいて、今、突然「変曲点」を迎えてすべてが加速する。これはおそらく、私たちは潜在的な問題を、あまり敏感に察することができないであろうことを意味します。

私は、これが当カンファレンスの中核テーマに立ち戻るための橋渡しをすると思っています。これは単なる「デジタル時代における組織の変化」ではありません。もちろん、このテーマは現実で、私たちはデジタル時代の組織の変化に関与しているのですが、それだけでなくさらに深い課題は、「どのようにして長期視点を育むか?」そして「私たちが活動している現実において、価値創造とは何か?」というものです。

ビジネスと今の現実

私にとって、政府組織とも教育機関とも異なるビジネスの特徴のひとつは、ことさら今日の世界では、ビジネスは今の現実に適応していなければならないことです。もし今の現実と調和がとれていなければ、たとえ非常に成功したビジネスであっても、あっという間に失敗に終わってしまいます。

しかし、今の現実とは何でしょう? 私たちが目にするのは、目の前のものです。短期的で即時的なものが何かです。しかし、私たちが活動する現実のさらに深い性質には、それほど注意を払っていないかもしれません。この現実は、2‐3年ではなく、200‐300年をかけて変容してきました。そして、現に人類のプロセスが、地球システムが全体としての機能する方法を変化させています。

多くの環境学者が、現代を「人新世(Anthropocene)」と呼んでいます。これは人間が地球上の生物の形態を実際に形づくっていることを意味します。それは、ここ1-2世紀の間にゆっくりと徐々に起きています。1世紀前は、主にヨーロッパ社会が推し進めていましたし、もちろんアメリカも台頭しつつありました。2世紀前には、大英帝国が現代世界における最初の大規模な植民地化を進めました。最初の大規模なグローバル化だったと言えるかもしれません。みなさん中国は、国としてこの中に巻き込まれて植民地となりました。

しかし、さらに深い現実があります。私たちはつまり、金融資本を生み出すために生態系資本を搾取してきたのです。私たちは、自然を「資源」、つまり必要に応じて取って使うことのできるものとして扱ってきました。かつて、一本の木は「木」でした。命ある存在で、空間の中に私たちのようなほかの生命と共生するものでした。しかし、「木」は「木材」という資源になってしまいました。鉱物も同じです。私たちの母なる地球上のほとんどすべてに同じことが言えます。

同時に私たちは、生態系資本を搾取したのと同じように、多くの手法で社会的資本も搾取してきました。多くの場合、何千年にもわたって、さまざまな社会の進化を搾取してきました。中国がその典型であることは明らかです。インドもそうです。しかし、もっと世界中に分布する土着の先住民文化も同じです。お判りでしょうか? みなさんも、そして彼らもみんな、搾取と実験の千年間の中に存在し続けています。「社会として良く生きるとはどういう意味か?」これは、産業化時代においてすべてあっという間に隅に追いやられて、今では産業化時代のうちのデジタル時代を加速させています。これもまた現実です。

ですから、ビジネスがただ短期的な現実だけに調和しているということは、単純に言えば「私たちはあと5年間は生き残るだろう」と言っているも同然です。ひょっとするとそれより短期かもしれません。本当の問いは「私たちは、自分の子どもや孫の時代、ひ孫の時代に生き残ることができるだろうか?」です。これが、長期視点という私たち人類にとっての中核的な課題です。

パート 1・

「英雄はいない」ピーター・センゲ、システム・リーダーシップを語る

MIT Leadership Centerのインタビューより。

聞き手 まず、あなたの人となりを知ることから始めたいと思います。あなたのシステムに対する関心に火をつけたものは何だったのか、何か感じるものはありますか?

センゲ ロサンゼルスで育ったことです。それだけでは分からないかもしれませんね? 決して忘れられないことなのですが、子どもの頃はロサンゼルスのサンフランタバレーに住んでいました。両親の車の後部座席に座って、何マイルも続くオレンジとレモンの果樹園を眺めていました。今では、想像もつかない光景です。大学に通う頃までには、そう、10年かそこらの比較的短期間で、すべて無くなってしまっていたのです。ショッピングモールや開発地区に変わっていました。「空気が悪すぎるので、子どもたちは外に出てはいけません」という警報が出たものでした。10年間のプロセスが、このとんでもない手に負えない開発、すばらしい自然の住空間を破壊して、本当に誰が考えても暮らすのに望ましくない場所を創り出したのです。

この経験を通して、ひとつの問いが明確になりました。誰も、誰一人として、コントロールしていないのです。誰もこんなことを成し遂げたいと思ってもいなかったのです。計画を立てていた人がいたとして、それが些細な影響しか与えなかったことは明らかです。巨大な開発の雪崩が、起きていました。これが私に気づかせたのは、システムが、そのシステム自体をコントロールしているということでした。そのプロセスをコントロールしていたのは、そのプロセス自体でした。

聞き手 少し早送りで進めます。あなたは多数の書籍を書かれています。企業、行政、学校や、多くの組織と協力して、それらの取り組みは、世界に対して大きな影響を与えてきました。どの仕事をとっても、簡単なものではありません。それらにおいて、もっとも重要な、コアとなる考え方を3,4つ挙げれるとすれば、どのようなものでしょうか?

センゲ そうですね、ここまで子どもの頃の話、ここまでどうしてきたのかをお話してきましたから、そこから言ってみれば「ほら、誰のせいでもない!システムが、それ自体をコントロールしているんだ!」というのが、今もコアとなる考えだと言えるでしょう。こんなふうに言っても良いでしょう。いったい誰が、朝目覚めて「気候を不安定化させたい!」と思うでしょう?「貧困を生み出したい!」と思うでしょうか? 私たちが直面するあらゆる世界のシステム的な課題を、誰が創り出したいと思っているでしょうか? 答えは、誰もそんな人はいません。しかし、誰が創り出しているでしょうか? 私たち全員です。ですから、私たちの願いと、私たちのエージェンシーの乖離が、根本的な問題です。これが、まさに世界の問題だと言っても良いほどだと思っています。いつもすべての中心に存在しています。

その後、私は実践的なシステム思考やシステム・チェンジの、より詳細なポイントをたくさん学びました。こうして5つのディシプリンのフレームワークが、次第にかたちづくられていきました。そこで明らかだったのは、本当に頭角を表した人たちが、共有ビジョンを築くことに実に長けていたということです。

聞き手 では、1つ目にシステムが支配していること。2つ目、ビジョンという言葉ですが、あなたが話しているのは、個人ではなく、集合的(コレクティブ)なビジョンですね。「私はこれが欲しい!」という個人のものではなく、より大きな善のため、人々が団結して、私たちが未来においてどんな場所にいたいか? というすばらしい考えのことですね?

センゲ そして、その2つに、3つ目を加えることができるでしょう。本当のシステム・チェンジのプロセス、つまり「やり方」の部分です。ある意味、かなり不可思議だと思うのです。組織論にはあらゆるモデルがあり、「計画された変化」があります。主流のリーダーシップ論も、みなさんご存知のように、「個人または少人数がビジョンを言語化し、計画を立てて、人々を巻き込む戦略を立てて、誰かのビジョンに向けてどうやって人々を動かすか」です。

これが、状況によっては、完全にうまく機能したことに疑いの余地はありません。しかし、私は、深いシステムの課題を扱うときに、このやり方はまったく完全に不適切だと思っています。つまり、気候変動から私たちを助けてくれる者は、誰もいないのです。気候変動に関して、私たちは自分で自分を救わなければなりません。深いシステム課題のどんなものでも取り上げてみれば、気づくでしょう。いつも重要なのは、さまざまな場所から、さまざまな形での、多くの人のリーダーシップなのです。

聞き手 では、そのシステムをどうすればよいのでしょう? ビジョンがあり、人々は準備ができている。そのとき、次のステップは何ですか?

センゲ ある種のつながり(connectedness)の感覚が育っていて、これから発達し始めると思います。ここで言うつながりとは、「私たちはひとりではないし、私はひとりではない」という感覚です。私たちが、システム思考でよく使っていたマンガがありました。こんな風に傾いてボートの端に、2人の男が立っています。ボートが反対の端から沈んでいるのです。そのとき、これは取るに足らないことではないのですが、2人は顔を見合わせて言います。「穴の空いているのが、あいつらの側で本当によかった!」と。

これは「私がOKだから、これでOKだ!」というマインドセットです。しかし、そんなことはありません。重要なのは、「私たち」がOKかどうかです。ボートのどちら側に穴が空いていても関係ありません。これは、変化のプロセスにおいても同じことが言えます。

穴がこちら側でなくて本当によかった!

私たちが、彼らの側の穴に取り組まなければならないのです。このマインドセットが必要です。ある意味、悟りを開いたようなマインドセットと思われるでしょうし、その通りだと思います。しかし、とても実践的なマインドセットでもあります。だから、このボートのマンガがいつも効果的なのです。みんな、分かるのです。2人の男が良い気分なのが、分かるでしょう?

何年も前になりますが、ニューヨークの人たちが大勢言っていました。「もし海の水位が5メートルや10メートル上昇するなら、マンハッタンを壁で囲めばいいじゃないか」。彼らは、ボートの自分の側を見ていたのです。このマインドセットに囚われるのです。自分と、自分たちのものだけを守ればいい。遅かれ早かれ、これがシフトしなければなりません。


書評『イシュマエル』文化にまつわるダイアログ

The Systems Thinkerより、ピーター・センゲによる1990年代の書評です。『イシュマエル ―ヒトに、まだ希望はあるか』(ダニエル・クイン著)。(日本語訳は残念ながら絶版のようで、Amazonでは非常に高額になっています)
https://thesystemsthinker.com/ishmael-cultural-dialogue/


「当方教師——生徒募集。世界を救う真摯な望みを抱く者に限る。本人直接面談のこと」

これが『イシュマエル』の書き出しです。私たちが共有する世界に対する前提への、目の離せない冒険です。グローバルな問題に対する、創造的で前向きな解決策を提示したフィクション作品としてターナー賞を受賞した本作は、私たちのカルチャーの「物語」がはるか遠くに示唆するものに対する、強力な問いを投げかけます。

教師のイシュマエルが、語り手の生徒に説明します。「母なる文化(その声は君が生まれた日から耳に届いている)は、どのようにしてものごとが今のようになったかを説明してきた。君はよく知っている。そして、君たちたちの文化の中にいる誰もが、よく知っている。(中略)私たちがこの旅路を進める中で、そのモザイクのカギとなるピースを改めて見つめることになる。そして、私たちの旅が終わったとき、君は、世界とここで起きたあらゆることに対して、まったく新しい認識を手にしているだろう」。本書を読み進めるうち、読者のあなたも同じ旅路ー1人の人間と1頭のゴリラによる、あなたの世界観を根本的に変えるかもしれない会話に参加することになります。

「できごと」から「相互関係性」へ

プラグマティックに見れば、システム思考は、難解で高度に相互依存的な問題を解決するツールと方法論の体系です。しかし、究極的に大切なのは、私たちの世界観を拡張することです。

近年、歴史学者のトム・ベリーは「私たちは、組織を改善することで、もっと上手く地球を破壊できるようにしているだけか?」と尋ねました。 本当にシステムの視点に立つならば、このような問いは無視できないものです。しかし、これらの問いが根本的に価値あるものであるのは、私たちに深く保持した文化の前提を問い直させるものだからです。この『イシュマエル』という一冊は、こうしたさらに深い目的を論じています。

私は、私たちの組織における支配的な思考と相互行動のパターンが根本的に変わらなければ、私たちを脅かす、さらに大きな環境危機は避けられないと考えています。この「モノやできごとから相互関係へ」の意識の転換が、本当の文化的インパクトを持ち始めるには、それが、広く深く浸透しなければなりません。『イシュマエル』は、この転換を始めるひとつの方法です。

現在進行中の物語のいちばん新しい章

ダイアログについての第一人者、物理学者の故デヴィッド・ボームは、人類は共に思考する力を、はるか昔に失い始めたと信じていました。彼は、農耕革命に端を発する社会秩序の漸進的な断片化は、思考の漸進的な断片化につながり、過去一万年の人間文明をどんどん特徴づけるようになったと考えていました。

驚くべきことに、イシュマエルは同じ視点でこのように述べます。「つまり、君は、君たちの農耕革命は、トロイ戦争のような出来事ではなく、遠く離れた過去のできごとで、現在の君たちの生活に直接関係しないと考えるのだね。近東の新石器時代の農民たちが始めた仕事は、一度も途切れることなく、世代から世代へ、そして今この瞬間まで受け継がれてきた。それは、最初の農村の基盤であったのとまったく同じように、今日の広大な文明の基盤となっているのだよ」。

イシュマエルによれば、私たちの現代の社会問題は、農耕革命以来、私たちが自然から断絶していること、つまり、私たちの役目が、自然を自分たちの意図に従うように支配することだという前提から生まれています。過去100年間、この考えをグローバルな規模で実行する力を、私たちが身に付けるにつれて、この前提の帰結は、ますます深刻になってきました。グローバルな環境への目に見えるインパクトを超えて、私たちは今や遺伝子コードを変化させる能力すら手にしています。イシュマエルが指摘するように、私たち人類は、この星の進化の歴史上、システマチックにほかの種を破壊する最初の種です。本質を言えば、私たちは進化のプロセスの基盤を弄んでいます。

これらの行動の背後には、人類が出現したことで、進化は終わりを迎えたという思い込みがあります。私たち人間はは、自分がただ現在も進行中の物語のいちばん新しい章だと認めるのではなく、この物語は私たちで終わったのだと考えています。この前提は、私たちの思考の中で、私たちを進化のプロセスの外側に置いたのです。文字通り、私たちは自然の摂理の外側に生きる「アウトロー(無法者)」なのです。この姿勢には、悲惨な帰結が待っています。私たちは、人類には進化が存在しないかのように振る舞うことで、それを現実にしてしまうかもしれない行動を取っています。進化は本当に私たちで終わるのかもしれません。少なくとも、私たちの種の進化は終わるのかもしれません。

文化にまつわる問い

ゴリラのイシュマエルは、こんな問いから授業を始めます「私の経歴に基づくなら、私が教えるにもっともふさわしい科目は何かね?」。語り手が答えられないと、イシュマエルは応えます。「もちろん、答えられるさ。私の科目は『囚われ』だよ」。

イシュマエルは、幼いゴリラの頃に捕獲されて動物園に売られましたが、折の中での「囚われ」について教えようというのではありません。その、もっと目に見えにくく、はるかに深遠な性質です。「君たちの文化の中の人で、世界を破壊したい者はだれかね?」とイシュマエルは尋ねます。語り手は応えます。「私の知る限り、誰も世界を破壊したいなどと思ってはいません」。

「にもかかわらず」と、イシュマエルは続けます。「君たちは破壊している。君たちひとりひとりが、だ。君たちそれぞれが、毎日、世界の破壊に手を貸している。どうして止めないのかね?」

語り手は肩をすくめます。「正直言って、方法を知らないのですよ」。

「君たちは、文明システムの囚われの身なのだよ。それが、多かれ少なかれ、君たちが生活するために、世界を破壊し続けさせている。」

イシュマエルと語り手の間の、文化についての深い探求がここから始まります。この問いは、企業の組織文化や、西洋文化vs東洋文化といったものの掘り下げではなく、私たちの支配的な工業化時代の文化(これはますますグローバルな文化となりつつあります)と、この文化がどのように、工業化以前・農耕化以前の社会における伝統的な文化と異なっているかを掘り下げるものです。この問いの目標はシンプルで、私たちが存在し続けていることの本質に気付くことです。語り手は、私たちが自分を解放するのを妨げているものは、何よりも、歴史を通して私たち自身が自分たちに言い聞かせてきた「物語」という思い込みの囚人だと気付いていないこと、そして、私たちを囚人のままにしているのは、私たちが「檻の格子に気付くことができない」ことに、次第に気が付いていきます。

イシュマエルは説きます。「2つの根本的に異なる物語が、人類史の中で始まった。1つは、ここで、200-300万年前に始まった。その者たちを、私たちは『残す者たち(Leavers)』と呼ぶことにした。そして、この物語は、今も彼らによって実行されている。ずっと変わりなく、うまくいっている。もう一つは、1万-1万2千年前に実行され始めた。その者たちを、私たちは『奪う者たち(Takers)』と呼ぶことにしたが、これは大惨事の内に終わろうとしているようだ」。

自分自身の文化を問うことは困難です。文化とは、定義として、私たちが「それを通して」見るものであり、私たちに「見える」ものではありません。私たちの共有する文化的な思い込みを問い直し続けることは、とてつもなく困難です。間違いなく、工業化社会に暮らす人同士が2人で、自分たちの文化のもっとも深い前提を掘り下げるのは困難です。というのは、彼らはその前提を共有しているからです。多くの意味で、そんな会話には、異なる視点、私たちのものとは根本的に異なるものが必要なのです。

ゴリラのイシュマエルは、人類がコントロールしようとしているものが、いかに完全なものであるかを表現しています。人間を生徒、イシュマエルを教師とすることにより、著者のクインは、私たちの自然へのアプローチを特徴づける支配関係を逆転させているのです。さらに、私たちの人間はゴリラと話すことなんてできないという、私たちの思い込みを保留させ、著者はある意味比ゆ的に、私たちはほかの種とは別の存在だという思い込みにも疑いを投げかけています。

このように『イシュマエル』は、私が本当の対話にとって大切だと考えているものを、痛烈に描写しています。私たちはよく、対話とは人が集まって輪になって座ることだと考えますが、実際、語源の「dia-logos」の意味はシンプルで、新しい意味のフローを開くような深い問いかけなのです。この意味で、対話は、個人の中にも、1000人の集団にも、そこに深い動きがあるならば、どんな状況においても起こり得るのです。

イシュマエルが生徒に使う問いの方法は、禅の公案―私たちの通常の考え方では解けず、完全に異なるフレームワークを必要とするパズルのようです。「私たちの文化創造の神話とは何か?」「私たちの世界の意味は何か?」。『イシュマエル』における生徒は、こうした問いに悩むことになります。この構造のため、読者は、この本をほとんどどこからでも読み始めて、問い掛けの本質を感じ取ることができます。私はこの本を持ち歩き、どこかページを選んで読んでみています。すると、10分か15分もしないうち、また探求のフローの中にいるのです。

ただ手に取って、どこからでも読み始めてください。

Strutter and Meaning
「気取り屋と意味」

書籍を評価する際、私たちはコンテント(内容)とプロセス(過程)が別のものであるかのように判断しがちです。しかし、この前提も、私たちの文化に浸透した深い断片化の一端です。文学に大切なのは、ただ説得力のある考え方を提示することだけではありません。偉大な書籍においては、表現の手法が、アイデア自体と同様の説得力を持ちます。『イシュマエル』が強力なのは、その手法、プロセス、そしてコンテントが密接に統合されているからです。本書のこうした前提そのものが、どんな論点の提示をも超えたレベルで、読者を巻き込んでいきます。

この理由から、私は『イシュマエル』は実に、クインが必要だと信じる種類の文化的な変化に寄与する可能性があると信じています。私たちの文化にまつわるこれまでとまったく違う種類の対話へ、私たちの考えを開かせることによって、本書はその文化に風穴をあける可能性があります。

『イシュマエル』が提示するのは、文化に関する中核となる矛盾です。いかなる個人であっても1人で文化は変えられない。しかし、個人の変化がなければ、文化は変わらないのです。私たちの文化の機能不全について、本書のように新しく、これまでと異なる、より明確な方法で考えるための刺激を与えてくれる書籍を、私はほかに知りません。個人としての私たち一人ひとりに訴えかけ、コレクティブな文化の変容を創り出すために必要な、個人としての変化を始めるようにと課題を投げかける一冊です。


学習する組織をどのように定義しますか?(前半)

学習する組織をどのように定義しますか?

まず、私なら「業界用語」をゴミ箱に捨てます。「学習する組織」のような言葉は、いつも一定程度において、業界用語的であり、みんなを不快にしてしまいます。

少しだけ時間を取って、考えてみてください。みんなが協力して最高の状態で仕事をしているところを。それが常識となるような組織をどのように育てましょう? みんなと一緒に最高の状態で仕事をすること。これは、継続的で絶え間ないプロセスです。もし、そうしようと思って取り組んでいるならば、あなたは学習していることでしょう。

先ほど話しましたが、組織に浸透するマインドセットは、たった2つしかありません。コントロールと学習です。問題は、支配的なのがどちらかです。学習が支配的であれば、「学習する組織」と呼ばれるもののあらゆる側面を生み出していることを保証します。


インタビュー:ピーター・センゲ ④(Journal of Beautiful Business誌)

Journal of Beautiful Businessによるインタビューを翻訳します。聞き手は、MIT Sloan Management Reviewの元編集長、ニナ・クルシュビッツ。

ビジネスに『学習する組織』をもたらしたマネジメント思想の第一人者、現代の教育を語る(4/4)

2018年12月16日

Peter profile

前回まで  /  /

教育の政策や実践の変革に関して、諸外国が持っている可能性のあるアドバンテージは、どんなものでしょうか?

トップにいることには、いつも問題が付いて回ります。企業であれ、国家であれ。エゴや高慢と言うか、世界は自分たちを中心に回っているような態度です。こういった問題は、自分たちがNo. 1であるときに起こります。だからこそ、多くのアドバンテージが、人々が何か新しいものを創り出せるかもしれないと感じる、諸外国や地域に移ってしまうのです。

本当にたくさんの意味で、今日の米国の意図は、創り出すことでなく、保護や維持/保全に向けられています。国内にクリエイティブな産業はたくさんありますが、私たちのカルチャーを全体として見ると、100年前はその特長だった創造性の輝きから、遠く離れてしまっています。ですから、辺境にある国々が、大きなアドバンテージを持っています。

中国は、ある種のパラドクスです。なぜなら、自国をすでにNo. 1と見ているので、その高慢に囚われつつあります。しかし、中国の中には、西洋化した消費者志向、物質主義的な文化ではない、何か新しいものを創り出すことで、とても活気づいている部分もあります。中国は、巨大な工業国ですが、中国の人たちにしかできない、ものすごく組織化された方法で積極的な脱炭素化を進めています。あの国は、2030年までにカーボン・ニュートラルに近いところにいるのではないかと思います。これは、米国ではレーダースクリーンにも映らず、目標として考えることすらできないような目標です。

現代の私たちの文化のどこに、もっとも落胆していますか?

今の政治以上にですか? 私にとって、それよりずっと大きな問題なのは運命論です。気候変動が、これをもっとも残念かつ悲劇的な方法で示しています。問題は、気候変動ではなく、私たちが気候変動に対して持っている運命論なのです。みんな、人々には見えません。これが変わることがあり得るということが。希望や可能性の欠如こそが、大きな課題に対して、私たちをマヒさせてしまうのです。

いちばん大きな希望を与えてくれるものは何ですか?

注意して見てみると、世界には、教育のルネサンスのように、希望を再び吹き込むようなムーブメントやイニシアティブがたくさんあります。テクノロジー業界の古いジョークに「未来はすでにここにある。ただ均等に行き渡っていないだけだ」とありますが、これが、これまでのどんな時代よりもその真実味を増しています。最も必要なものが、すでに生まれている場所を見つける必要があるのです。私たちが恐れていることに注意を向けるのではなく、変化が自然に起きているところに意識を向けて、それを育み始めなければなりません。

(終)