The Systems Thinkerより、ピーター・センゲによる1990年代の書評です。『イシュマエル ―ヒトに、まだ希望はあるか』(ダニエル・クイン著)。(日本語訳は残念ながら絶版のようで、Amazonでは非常に高額になっています)https://thesystemsthinker.com/ishmael-cultural-dialogue/
「当方教師——生徒募集。世界を救う真摯な望みを抱く者に限る。本人直接面談のこと」
これが『イシュマエル』の書き出しです。私たちが共有する世界に対する前提への、目の離せない冒険です。グローバルな問題に対する、創造的で前向きな解決策を提示したフィクション作品としてターナー賞を受賞した本作は、私たちのカルチャーの「物語」がはるか遠くに示唆するものに対する、強力な問いを投げかけます。
教師のイシュマエルが、語り手の生徒に説明します。「母なる文化(その声は君が生まれた日から耳に届いている)は、どのようにしてものごとが今のようになったかを説明してきた。君はよく知っている。そして、君たちたちの文化の中にいる誰もが、よく知っている。(中略)私たちがこの旅路を進める中で、そのモザイクのカギとなるピースを改めて見つめることになる。そして、私たちの旅が終わったとき、君は、世界とここで起きたあらゆることに対して、まったく新しい認識を手にしているだろう」。本書を読み進めるうち、読者のあなたも同じ旅路ー1人の人間と1頭のゴリラによる、あなたの世界観を根本的に変えるかもしれない会話に参加することになります。
「できごと」から「相互関係性」へ
プラグマティックに見れば、システム思考は、難解で高度に相互依存的な問題を解決するツールと方法論の体系です。しかし、究極的に大切なのは、私たちの世界観を拡張することです。
近年、歴史学者のトム・ベリーは「私たちは、組織を改善することで、もっと上手く地球を破壊できるようにしているだけか?」と尋ねました。 本当にシステムの視点に立つならば、このような問いは無視できないものです。しかし、これらの問いが根本的に価値あるものであるのは、私たちに深く保持した文化の前提を問い直させるものだからです。この『イシュマエル』という一冊は、こうしたさらに深い目的を論じています。
私は、私たちの組織における支配的な思考と相互行動のパターンが根本的に変わらなければ、私たちを脅かす、さらに大きな環境危機は避けられないと考えています。この「モノやできごとから相互関係へ」の意識の転換が、本当の文化的インパクトを持ち始めるには、それが、広く深く浸透しなければなりません。『イシュマエル』は、この転換を始めるひとつの方法です。
現在進行中の物語のいちばん新しい章
ダイアログについての第一人者、物理学者の故デヴィッド・ボームは、人類は共に思考する力を、はるか昔に失い始めたと信じていました。彼は、農耕革命に端を発する社会秩序の漸進的な断片化は、思考の漸進的な断片化につながり、過去一万年の人間文明をどんどん特徴づけるようになったと考えていました。
驚くべきことに、イシュマエルは同じ視点でこのように述べます。「つまり、君は、君たちの農耕革命は、トロイ戦争のような出来事ではなく、遠く離れた過去のできごとで、現在の君たちの生活に直接関係しないと考えるのだね。近東の新石器時代の農民たちが始めた仕事は、一度も途切れることなく、世代から世代へ、そして今この瞬間まで受け継がれてきた。それは、最初の農村の基盤であったのとまったく同じように、今日の広大な文明の基盤となっているのだよ」。
イシュマエルによれば、私たちの現代の社会問題は、農耕革命以来、私たちが自然から断絶していること、つまり、私たちの役目が、自然を自分たちの意図に従うように支配することだという前提から生まれています。過去100年間、この考えをグローバルな規模で実行する力を、私たちが身に付けるにつれて、この前提の帰結は、ますます深刻になってきました。グローバルな環境への目に見えるインパクトを超えて、私たちは今や遺伝子コードを変化させる能力すら手にしています。イシュマエルが指摘するように、私たち人類は、この星の進化の歴史上、システマチックにほかの種を破壊する最初の種です。本質を言えば、私たちは進化のプロセスの基盤を弄んでいます。
これらの行動の背後には、人類が出現したことで、進化は終わりを迎えたという思い込みがあります。私たち人間はは、自分がただ現在も進行中の物語のいちばん新しい章だと認めるのではなく、この物語は私たちで終わったのだと考えています。この前提は、私たちの思考の中で、私たちを進化のプロセスの外側に置いたのです。文字通り、私たちは自然の摂理の外側に生きる「アウトロー(無法者)」なのです。この姿勢には、悲惨な帰結が待っています。私たちは、人類には進化が存在しないかのように振る舞うことで、それを現実にしてしまうかもしれない行動を取っています。進化は本当に私たちで終わるのかもしれません。少なくとも、私たちの種の進化は終わるのかもしれません。
文化にまつわる問い
ゴリラのイシュマエルは、こんな問いから授業を始めます「私の経歴に基づくなら、私が教えるにもっともふさわしい科目は何かね?」。語り手が答えられないと、イシュマエルは応えます。「もちろん、答えられるさ。私の科目は『囚われ』だよ」。
イシュマエルは、幼いゴリラの頃に捕獲されて動物園に売られましたが、折の中での「囚われ」について教えようというのではありません。その、もっと目に見えにくく、はるかに深遠な性質です。「君たちの文化の中の人で、世界を破壊したい者はだれかね?」とイシュマエルは尋ねます。語り手は応えます。「私の知る限り、誰も世界を破壊したいなどと思ってはいません」。
「にもかかわらず」と、イシュマエルは続けます。「君たちは破壊している。君たちひとりひとりが、だ。君たちそれぞれが、毎日、世界の破壊に手を貸している。どうして止めないのかね?」
語り手は肩をすくめます。「正直言って、方法を知らないのですよ」。
「君たちは、文明システムの囚われの身なのだよ。それが、多かれ少なかれ、君たちが生活するために、世界を破壊し続けさせている。」
イシュマエルと語り手の間の、文化についての深い探求がここから始まります。この問いは、企業の組織文化や、西洋文化vs東洋文化といったものの掘り下げではなく、私たちの支配的な工業化時代の文化(これはますますグローバルな文化となりつつあります)と、この文化がどのように、工業化以前・農耕化以前の社会における伝統的な文化と異なっているかを掘り下げるものです。この問いの目標はシンプルで、私たちが存在し続けていることの本質に気付くことです。語り手は、私たちが自分を解放するのを妨げているものは、何よりも、歴史を通して私たち自身が自分たちに言い聞かせてきた「物語」という思い込みの囚人だと気付いていないこと、そして、私たちを囚人のままにしているのは、私たちが「檻の格子に気付くことができない」ことに、次第に気が付いていきます。
イシュマエルは説きます。「2つの根本的に異なる物語が、人類史の中で始まった。1つは、ここで、200-300万年前に始まった。その者たちを、私たちは『残す者たち(Leavers)』と呼ぶことにした。そして、この物語は、今も彼らによって実行されている。ずっと変わりなく、うまくいっている。もう一つは、1万-1万2千年前に実行され始めた。その者たちを、私たちは『奪う者たち(Takers)』と呼ぶことにしたが、これは大惨事の内に終わろうとしているようだ」。
自分自身の文化を問うことは困難です。文化とは、定義として、私たちが「それを通して」見るものであり、私たちに「見える」ものではありません。私たちの共有する文化的な思い込みを問い直し続けることは、とてつもなく困難です。間違いなく、工業化社会に暮らす人同士が2人で、自分たちの文化のもっとも深い前提を掘り下げるのは困難です。というのは、彼らはその前提を共有しているからです。多くの意味で、そんな会話には、異なる視点、私たちのものとは根本的に異なるものが必要なのです。
ゴリラのイシュマエルは、人類がコントロールしようとしているものが、いかに完全なものであるかを表現しています。人間を生徒、イシュマエルを教師とすることにより、著者のクインは、私たちの自然へのアプローチを特徴づける支配関係を逆転させているのです。さらに、私たちの人間はゴリラと話すことなんてできないという、私たちの思い込みを保留させ、著者はある意味比ゆ的に、私たちはほかの種とは別の存在だという思い込みにも疑いを投げかけています。
このように『イシュマエル』は、私が本当の対話にとって大切だと考えているものを、痛烈に描写しています。私たちはよく、対話とは人が集まって輪になって座ることだと考えますが、実際、語源の「dia-logos」の意味はシンプルで、新しい意味のフローを開くような深い問いかけなのです。この意味で、対話は、個人の中にも、1000人の集団にも、そこに深い動きがあるならば、どんな状況においても起こり得るのです。
イシュマエルが生徒に使う問いの方法は、禅の公案―私たちの通常の考え方では解けず、完全に異なるフレームワークを必要とするパズルのようです。「私たちの文化創造の神話とは何か?」「私たちの世界の意味は何か?」。『イシュマエル』における生徒は、こうした問いに悩むことになります。この構造のため、読者は、この本をほとんどどこからでも読み始めて、問い掛けの本質を感じ取ることができます。私はこの本を持ち歩き、どこかページを選んで読んでみています。すると、10分か15分もしないうち、また探求のフローの中にいるのです。
ただ手に取って、どこからでも読み始めてください。
Strutter and Meaning 「気取り屋と意味」
書籍を評価する際、私たちはコンテント(内容)とプロセス(過程)が別のものであるかのように判断しがちです。しかし、この前提も、私たちの文化に浸透した深い断片化の一端です。文学に大切なのは、ただ説得力のある考え方を提示することだけではありません。偉大な書籍においては、表現の手法が、アイデア自体と同様の説得力を持ちます。『イシュマエル』が強力なのは、その手法、プロセス、そしてコンテントが密接に統合されているからです。本書のこうした前提そのものが、どんな論点の提示をも超えたレベルで、読者を巻き込んでいきます。
この理由から、私は『イシュマエル』は実に、クインが必要だと信じる種類の文化的な変化に寄与する可能性があると信じています。私たちの文化にまつわるこれまでとまったく違う種類の対話へ、私たちの考えを開かせることによって、本書はその文化に風穴をあける可能性があります。
『イシュマエル』が提示するのは、文化に関する中核となる矛盾です。いかなる個人であっても1人で文化は変えられない。しかし、個人の変化がなければ、文化は変わらないのです。私たちの文化の機能不全について、本書のように新しく、これまでと異なる、より明確な方法で考えるための刺激を与えてくれる書籍を、私はほかに知りません。個人としての私たち一人ひとりに訴えかけ、コレクティブな文化の変容を創り出すために必要な、個人としての変化を始めるようにと課題を投げかける一冊です。