なぜシステム思考なんですか? (モントレー工科大学講演 1)

システム思考は、少し流行り言葉のようになってしまったと思います。個人的には、今から2世代後くらいには、ただの「思考」と呼ばれるようになっていて、「システム」の部分が無くなっていてほしいと思っています。

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W・エドワーズ・デミングが語った「教育とビジネスの深いつながり」

晩年になると、彼は自分を世界中に知らしめていた「品質管理(Quality Management)」という言葉を使うのを拒否するまでになっていました。彼は「その言葉には、まったく何の意味もない!ほとんどの企業がこれまでずうっと続けてきた、バカバカしいことを続けるための都合のよい口実を与えているだけだ!」と話しました。

マネーと資本について (u.lab 2.0)

「私が自分の利益をどうしようが、あなたには関係ない!」という考え方が問題なんだ。利益が問題なんじゃない。問題は、「放っておいてくれ。それは私のお金なんだから!」という態度なんだ。今それが「私のお金」であるのは、社会のメカニズムによって、私のところへお金がやって来たからであって、自分でお金を刷ったわけではないだろう?

断続的に注意力を奪われている人のIQは、1日を通して10~20%も低下しています

私たちは、常に断続的に中断させられる状態にあり、何かに対応し続けることを迫られています。会議に出るとき、みんながテーブルを必要とする理由は1つだけで、自分のデバイスをテーブルの下に隠し、会議中に2つのことを同時並行できるようにするためです。この「同時に2つのことをする」という考えは、実にバカげています。2つのことを同時にはできません。1つのことしかできないのです。問題は、何かをやりながら、別のことを考えていることです。こうして永続的に注意力を失った状態で、私たちは生きています。

2030年の教育ビジョンとは – グローバルな教育を探して(4)

学校の多様性と学習者の多様性がマッチしていることです。私たちはみんな異なる学び方をします。ですから、本当に「学ぶこと」を中心に据えた学校(「教えること」ではなく)なら、様々なタイプの学習者に奉仕することができるでしょう。

ピーター・センゲの毎日の修養(プラクティス)とは

多くの人が、「私にとっては、走ることがプラクティスなんです」と言いますが、これには賛成しません。ほとんどの人にとって、走るのはストレスへの対処法だと思います。本当の修養(カルティベーション)というのは、それをはるかに超えるものなんです。

企業にとっての利益とは、人間にとっての酸素のようなものです(P. F. ドラッカー)

ドラッカーのたとえ話がいちばんはっとさせられるのですが、こう話しています。「企業にとっての利益とは、人間にとっての酸素のようなものだ。足りなければ、死んでしまう。しかし、もし人生で最も重要なのが息をすることだと思っているなら、その人は何かを見落としている」。
利益は、手段に過ぎないんです。

学習が起きる環境を創造する – グリーン・スクール・カンファレンス(7)

ある朝、目覚めると、教育のシステムが変革されている。そんなことは起こりません。変化には何十年もかかるでしょう。間違いありません。このモデルを世界中の社会に浸透するには、20~30年かかることでしょう。しかし、この変化が起こらなければ、その他に必要だと思っている変化のことはあきらめた方が良いでしょう。

私たちが成長して「持続可能」という言葉が似合わなくなることを望んでいます

私が望んでいるのは、「私たちが成長して、この『持続可能』という言葉が似合わなくなること」なんです。ここ15年くらいを振り返れば、この持続可能性、持続可能な発展という言葉がメインストリームで使われるようになりました。これらの言葉が最も大きな貢献をしてくれたと思うのは、自然環境の問題と社会の不平等という問題という2つの間に、人為的につくられた分断を解消してくれたことでした。

本当に正しくシステムの変革を行っているのはどの企業でしょうか?

中国の古いことわざに、こうあります。「もっとも優れた人たちとは、もっとも自分自身に厳しい人たちである」。自己満足は、いつもイノベーションの敵なのです。本当のイノベーションの精神を持ち続けたいと思うならば、「私たちはリーダーの一員だ」という思いこそ、最悪のものだと言えるでしょう。

謙虚さというか、いろいろなものが上手くいっていないと気付いていること。これが、イノベーターの本当の特徴なんです。

誰かを指さすとき、残り3本の指は自分を指していることに気を付けなさい

私たちの日常の認識に1つ、言わば根本的な「機能不全」があります。それは、問題がいつも「あちら側」に現れることです。「あの人はいつもあんなことをする」とか、「あんなふうに考えてばかりだ」とか、「ああいう偏見を持っている」とか。そして、私たちが忘れてしまいがちなのは、「それを見ているのは誰か」ということです。

「偉大なことなんてできませんよ。大きな愛を込めて、小さなことをやるんです」(マザー・テレサの言葉)

「どうすれば人は、偉大な仕事をすることができるのですか?」
デバシスが質問すると、マザー・テレサは、インド人がいつもする、あのちょっとした(首を左右に動かす)動作をしました。それから、肩をすくめて、こう言いました。「偉大なことなんてできませんよ。大きな愛を込めて、小さなことをやるんです。それだけです。」

世界には、たくさんの問題があります。そこに私のうしろ向きな気持ちを付け足す必要はありません。

この選択は、いつだって私たちに与えられています。私たちの注意の矛先を、私たちが本当に大切だと思うものと同じ方向へ向けることは可能でしょうか?とても簡単に言えば、あなたの「恐怖」ではなく、あなたの「愛」が向かう方に向けることはできるでしょうか?